特別の優しさをもって私に接している40歳のブハーリンと、植物が太陽の方に引っ張られるように彼の方に引っ張られていた15歳になったばかりの少女との間で、このやりとりがその後どのような方向で進んでいくことになったのかはわからない。私がまだ最後の言葉の意味を了解する間もないうちに、異常に興奮したルイコフが部屋に飛び込んできた。彼はスターリンから、ブハーリンはカーメネフと反スターリン・ブロックを結ぶ交渉…
それまでの反対派―つまり「合同」反対派、トロツキスト反対派〔スターリン、ブハーリン派の一国社会主義に対して世界革命を対置したジノーヴィエフ、カーメネフ、トロツキーら〕―はすぐには自分たちの見解を放棄せず、1927年の15回党大会でもそれを主張した。「右翼」反対派の場合には、この過程はずっと早かった。とはいっても、過去の見直しの時期である今日、歴史上どの反対派が魅力的に見えるかといった判断を下すの…
私は何度も裁かれたけれども、いつも欠席裁判で、一度も自分の裁判に出たことはなかった。たとえば、アストラハンへの流刑後、そこへ五年の流刑を決定したという内務人民委員部特別会議の決定が送られてきた時もそうであった。しかも、そこに三ヶ月いると、その決定は取り消されて、逮捕された。すでにアストラハン監獄へは八年間の禁固刑の決定がモスクワから来ていた。のちに収容所でこの禁固刑が刑期満了になった時にも〔19…
ある日の夕方、私たちはソコーリニキを長いこと散歩した。当時ソコーリニキはモスクワの外れにあり、私たちはそこへ市電で行った。エヌ・イはかなりよく市内の交通機関を利用した。乗客たちが彼を認めて、「ほら、ほら、ブハーリンが乗っているわ!」と言い合っていることもあった。 *ソコーリニキ(ソコリニキ、ロシア語: Соко́льники、ラテン文字表記の例: Sokolniki)はロシア・トゥーラ州の東部に…
私たちのシベリア旅行には二つの目的があった。計画経済大学での私の卒業論文は、「クズネツクКузне́цк冶金コンビナートの技術面=経済的基礎」で、シベリアに関するものであった。エヌ・イはアカデミー会員のイワン・パーヴロヴィチ・パールヂンのところに私を連れて行きたがっていた。パールヂンはわが国最高峰の冶金学者で、クズネツク冶金学者で、クズネツク冶金コンビナートの建設指導者であり、のちにその技術長と…
2 ネクラーソフについて思いをめぐらしているうちに、話が逸れてしまった。私の脳裏にかなり頻繁にきまってネクラーソフの詩が浮かぶのは偶然ではない。これは子供の頃から父に、多くの革命家が好きだった詩人、ネクラーソフの詩を教え込まれたせいである。 私の回想はつい私の苦難がはじまったばかりの頃に深入りしてしまい、トムスクの収容所から逸れてしまった。ところが、私はまだトムスクにいるのである。この収容所で1…
当時、私は15歳だった。チュドーフは背が高く、肩幅の広い、逞しい人であった。「Илья Муромецイリヤ・ムーロメッツІлля Муромець」〔キーエフ・ロシアの英雄叙事詩の主人公の一人で、大力無双の勇士〕ー私はおもしろ半分にこの人をそう呼んでいた。 「勇士ねえ、その勇士が一本の藁のように吹き飛ばされてしまったのよね」リュドミーラ・クジミニーチナは涙を流した。まわりの人の目を警戒して、そ…
◆絶望の時代を生き抜いた一女性の貴重な証言 ブハーリンとの出会い、楽しかりし日々、そして政治裁判の嵐。ブハーリン逮捕の直後、若き著者も捕えられ、1937年からフルシチョフ改革の56年まで、収容所や流刑地で服役する。本書は絶望の時代を生き抜いた誇り高き一女性の回想録である。党・国家の指導者が多数登場し、政治裁判にいたる30年代の政治のありよう、多くの指導者がなぜスターリンに屈服していったのか、を生…
ベリヤは最後に話したエピソードにとくに強い衝撃を受けたと、私は推測した。しかし、彼は冷やかに私を見ながら、落ち着いて言った。 「あなたの論証は説得的ではないですね。アンナ・ユーリエヴナ。あなたが持ち出した議論はあなたが知っている事実に基づいているようですが、証人の確認が要ります。彼ら二人、それに他の被告たちが裁判において、自分たちが行なったソヴエト国家に対する悪業を自供しているのに、ラデックが…
「おや、おや、何と下品な言葉遣いをするんです、恥ずかしくないのかね?」「いまの私にはもう恥ずかしいことなんか何もありませんわ!」と私は答えた。私としてもまったく困惑していたわけではなかったが、それは口にしなかった。 長く隔離されていた私はそのとき、国内で何が起こっていたのか、新内務人民委員は何を考えているのか、彼は宿命的な裁判にどのような態度をとっているのかわかっていなかった。慎重に、ゆっくり…